中川李枝子さん

今週のエレクトーンのレッスンで先生に、グレードについて、「せっかくなので、演奏でA評価を目指しましょう」と言われました。評価はA〜Eまであるらしい。A評価の演奏について、自分なりに模索しながら練習中…。


幼稚園はあと火曜日の修了式だけ。小学校はあと3日。
春休み〜4月の午前保育の期間、内職は休みを取ることにしました。GW明けにお弁当が始まってから、再開の予定。先日やっと長期休みの連絡の電話をかけてほっとして、ちょっと気持ちにゆとりができて、久々に部屋の断捨離に着手。なんとなく部屋がすっきりしたので、ずっと遊びに来てもらいたいと思っていた近所の友達親子に、やっと遊びに来てもらいました。部屋をちゃんと掃除できるから、たまに誰かに遊びに来てもらうことは大事ね…(^^ゞ



先週の日曜日、『ぐりとぐら』を書いた中川李枝子さんの講演会に行ってきました。絵本好きの友達が声をかけてくれました。一緒に行く!と言って楽しみにしていた長女が、前日の夜からお腹が痛いと言ってどうも不調そうだったので、元気いっぱいの次女を連れて。(長女は「中川りえこさんに会いたかった…」と涙をぽろぽろとこぼしていて、本当にかわいそうだったのですが…(>_<)夫と留守番…)

ぐりとぐら [ぐりとぐらの絵本] (こどものとも傑作集)

ぐりとぐら [ぐりとぐらの絵本] (こどものとも傑作集)

早めに会場に入れたので、一番前の端っこの席に座っていたら、講演の少し前に会場に入っていらっしゃった中川さんが、講演までの間座って待っている椅子がない…ということで、「ここに座って待っていてもいいかしら…?」と私と次女の隣に座られました。そして次女に「いくつ?」と話しかけて下さったり(次女「4さい!もうすぐ5さい!」。中川さん「まあ〜…大きいわねえ!」)、「退屈したらそのへんを走り回っていてもいいわよ」とおっしゃったり…色々話しかけて下さいました。


私が物心ついた時から読んでいた『ぐりとぐら』の絵本には、私の名前が書かれた中川李枝子さんのサインがありました。私が生まれた年のもので、母が中川さんの講演会に行った時に書いていただいた、とのことでした。それで、私は子ども心ながらに、私の名前を書いてくれた「中川李枝子さん」の存在を、ずっと温かく感じ続けてきました。
そして長女が生まれ、次女が生まれる少し前、中川さんの妹の山脇百合子さん(『ぐりとぐら』の挿絵を描かれた方)が岐阜に講演に来られ、母が同じ絵本に今度は長女の名前を書いていただきました。そして今回、母に頼んでその『ぐりとぐら』を送ってもらい、講演の後で次女の名前を書いていただくことができました。中川さんは「まあ〜、これはずいぶん昔のものねえ…!」とおっしゃいながら、サインして下さいました。
将来、娘たちが母親になったら、またきっと『ぐりとぐら』を自分の子どもに読むだろう…と思います。そんなふうにつながっていくことの不思議を、感じました。



私は、中川さんに直接お会いしたのは、初めてでした。想像していた以上に面白くて楽しくて明るい方で、1時間半の講演はあっという間でした。中川さんが関西に来られることはめったにないと思うので、本当に貴重な機会だったと思います。
中川さんは札幌で生まれ、北大の農学部で助手をされていたお父さんが、休みの日には北大の牛や羊のいる広い牧場(中川さんの絵本によく出てくる「はらっぱ」の風景につながる気がします)によく連れて行ってくれて遊んでくれたことなどから、話しはじめられました。家にはお金がなくて貧しかったらしいけれど、お父さんがしてくれるお話と「たかいたかい」はお金がいらなかったこと、お父さんはお話をしてくれるとき、なんでもかんでも「大きなもの」が好きで、お父さんのお話には大きなくじらがよく登場したこと、その後引っ越した東京の幼稚園や小学校での思い出、そして戦争中にはまた札幌の祖父母の家に疎開していたこと…。
「戦争中でも、子どもはやっぱり面白いものがないと生きていけないんですよ」と中川さんはおっしゃっていました。何もなくても、何か面白いものを見つけ出すのだ、と。中川さんは、疎開した札幌で両親の友達や親戚の家に招かれると、その家の本がある場所、というのがわかった、と言っていました。嗅覚みたいなもの、と。そこで戦争が始まる前の時代の素敵なものをたくさん見つけて(当時の札幌は東京に比べてまだのんびりしていてそういうものも残っていたらしい)、大人の雑誌でも小説でも、読めるものはなんでもかんでも読んだ、と言っていました。「この本は子どもにはまだ早い」と取り上げられても、今度は隠れて読んだ、と言っていました。それで、分からない言葉が出てくると大人には聞けないから、その都度自分で辞書を引いて調べたそうです。「私が初めて辞書で調べた言葉は、『めかけ』です」と笑っていました。(「めかけ」を引いたら「妻にあらざる女。」と書いてあったので、今度は「つま」を引いてみたら「婚姻せし女。」と書いてあり、それで次に「こんいん」を引いてみたら「結婚。」と書いてあったので、中川さんは納得しておやつを食べて外へ遊びに行ったそうです(笑))
札幌の祖父母は優しかったけれど、それでも、東京の両親や長野に集団疎開した小学校の友達に会いたくてたまらなかった、と言っていました。自分の持っているおこづかいで東京に行けないか計算したり、鉄道の線路をずっと歩いて行ったら東京に行けるんじゃないか…と考えたりしたけれど、お金はないし、北海道と本州の間には津軽海峡があるから無理だった、そんな時に北海道の広い空を見上げると、空は両親のいる東京にも、友達のいる長野にもつながっている、この空を自由に行き来できたらいいのに…と思った、その願いが『くじらぐも』なんです、とおっしゃっていました。(『くじらぐも』は、1974年から小学校1年の国語の教科書に載っています。)
戦争中の体育の授業は、整列したり行進したり、軍事教育だったんです、ともおっしゃっていました。だから軍事教育の体育じゃなくて、子どもたちと先生が楽しくのびのびと体を動かして体操したり思いっきり走ったり、そんな体育の授業がいいなあ…と思っていた。そして、お父さんのお話によく登場した大きなくじら…。そうだ、大きなくじらの雲に乗って、自由に空を行き来できたらどんなにいいだろうなあ…。「だから、『くじらぐも』は私の平和への願いなんですよ」と話されました。
戦後、お父さんが福島の蚕糸試験場で働くことになり、一家は福島に住むことになりました。中川さんが通った福島の新制中学校に、本が数冊置いてあるだけの図書室があり(戦後、GHQからすべての学校には図書館がなくてはならないという指導があり、それで本が数冊でも「図書室」と掲げられた部屋があったらしい)、そこにある日、真新しい岩波少年文庫の『ふたりのロッテ』が置かれていた。夢中になって読み、家に帰ってその素晴らしい本の話をすると、両親が買ってくれた。家族みんな夢中になって読んだそうです。
その後またお父さんの転勤で東京に戻り、東京都立高等保母学院を卒業後、「日本一の保育士になる」と思って、でも気に入らない人の下で働くことは嫌だったから、1箇所だけ「求む!主任保母」と書いてあった駒沢の「みどり保育園」で働くことに決めます。
この「みどり保育園」は無認可の保育園で、先生は園長先生と「主任保母」の中川さんの2人だけ。のちに駒沢オリンピック公園になる、広大な原っぱの端っこに小さな保育園があったそうです。中川さんは、その原っぱがとても気に入ったのと、園長先生から言われたのは「子どもたちが毎日喜んで通ってくる保育園にすること」「欠席者が一人も出ないような保育をすること」の2つだけ。それから15年間、この2つをとにかく一生懸命にやりました、とおっしゃっていました。(当時はまだ戦後間もなくて町の中には今とはまた違った危険が色々あり、安全のためにも、親たちが外で働いている間、保育園できちんと子どもたちをみるのがいい、という考えがあったようです)
その「みどり保育園」が、『いやいやえん』の「ちゅーりっぷほいくえん」なのだそうです。

いやいやえん (福音館創作童話シリーズ)

いやいやえん (福音館創作童話シリーズ)

子どもたちが毎日喜んで通ってくる保育園にするために、子どもたちを惹きつけるために、中川さんは、子どもたちが喜ぶような面白いことを必死になって考えました。子どもたちは今とは違って、「行ってきまーす!」とお弁当を持って、みんな家から1人で通ってきていたそうです。「だって、保育園に来るまでに広ーい原っぱがあるでしょ。保育園が面白くなかったら、原っぱで遊ぶ方が断然面白いに決まってるから、原っぱで遊んでお弁当食べて、夕方になったらおうちへ帰って…保育園なんか来ないじゃないですか。私の仕事は園長先生から言われた『欠席者が一人も出ないような保育をすること』だから、これをちゃんとやらなくちゃ主任保母の名がすたる、と思って、どうしたら子どもが喜んで保育園の方に来るか、必死で考えましたよ…」。その一つが「絵本」であり、中川さんの作る「お話」だったそうです。
ある時、子どもたちが岩波書店の『ちびくろさんぼ』に夢中になった。毎日毎日、何回も何回も読んで、そのうちに子どもたちが『ちびくろさんぼ』の遊び(劇遊び)まで始めるくらい夢中になった。あんまりみんながそのお話の世界に夢中になっていたものだから、ある時、園長先生が保育園でホットケーキを焼いてみんなで食べよう、と提案した。「今みたいに、ホットケーキミックスなんて便利なものはないから、小麦粉とお砂糖と牛乳と卵とバターで、保育園にあったフライパンでね。『ちびくろさんぼ』のお話みたいにたくさんはできないし、そんな立派なものじゃないけれど、ホットケーキを焼いて、みんなでちょっとずつ分け合って食べたんです」。
子どもたちは、保育園で先生がホットケーキを焼いてくれて、友達と分け合って食べたことが、とても楽しくて嬉しかったらしい。ホットケーキを初めて食べたという子も多かったようです。そして子どもたちが家に帰って親たちに話したホットケーキの話は、「こーんなに大きなホットケーキで、とってもおいしくて…」と、ものすごく立派なホットケーキになっていたそうです。
その話を子どもたちの親から聞いた中川さん…本当はそんなに大きなホットケーキじゃなくてちっぽけなホットケーキだったのに…じゃあ、お話の中でみんながびっくりするような大きなケーキを焼いて、子どもたちにプレゼントしよう、と考えた。「だから『ぐりとぐら』のお話は、私から子どもたちへのプレゼントだったんですよ」。
子どもたちに聞かせてくれるお話に、とにかく大きなものを登場させることが大好きだったお父さん…だから、中川さんもまず「おおきなたまご」で子どもたちをびっくりさせよう、と考えた。そして、ホットケーキじゃなくて、当時一番高級なお菓子だったカステラ…。焼くのは「とらのバター」じゃなくて、本物のバターを使ってね…
中川さんのお話の底に流れる温かさの秘密を、垣間見られた気がしました。
「だから、私が作るお話は、全部子どもたちからもらったものなんですよ」



ぐりとぐら』が生まれて、今年で50年。
そんな年月を感じさせず、そしてこれからもずっと世界中で読まれていくであろう1冊は、人と人の本当の心の通い合いの中から生まれたんだなあ…って、中川さんの言葉から感じることができました。
あの日、お会いできてお話を聞けて、本当によかった。中川さんのお話から受け取った大切なものを、大事に心の中で温め続けたいです。



そして、調べていたら、中川李枝子さんを「主任保母」として雇った園長先生、天谷保子さんが本を出されていることを知りました。

ありのままがいちばん。

ありのままがいちばん。

この方も、相当に素敵な方のようです。本を読んでみたいと思いました。