言葉をまねる

京子の言葉(らしきもの)が、だんだん増えている。


朝、キッチンのゲートが開いていると、キッチンからパンの袋を見つけ出して片手に持ち、和室でまだ寝ている私のところまでよじよじとやってきて、「パー、パー(パン、パン)」。おむつを替えるときに、「京ちゃん、たっちして」と言うと「ター、ター」。
水の「ジャー、ジャー」はだんだんしっかりしてきて、「京ちゃん、お母さん手を洗ってくるよ」と言うと、京子も手をゴシゴシさせて「ジャー」と言う。私がベランダの花にじょうろで水をやっていると、網戸ごしにそれを見ている京子が、こちらを指さして嬉しそうに「ジャー」。もちろん、洗面所で手を洗う時も、大喜びで「ジャー、ジャー」。
ヘレン・ケラーも、ものにはすべて名前、言葉があることに気づき、目覚めた最初は、水(water)だった、という話は有名だけれど、水は触った感覚の気持ちよさと音が結びつきやすいものなのかもしれない。


前の日記で紹介した、京子がこの頃大好きな絵本『たんたんぼうや』の最後のページは、「ぐーぐー すやすや ぐーぐー もにゃもにゃ ふーふーふー」という文で終わっているのだけれど、私が読み終わると、京子も私と同じ調子で「フー、フー…」と繰り返す。


最近の京子の様子を見ていると、意味のある言葉の最初は、大人が発した言葉を真似て、同じように発音できるようになるところから、始まるのかな…と思う。もちろん、それまでの間、お腹の中にいる時からずっと、両親や周りのたくさんの人たちが語りかける言葉をたくさんもらって、そしてやっと自分で少しずつ口にできるようになる今があるのだと思う。


たくさんたくさん、語りかけてあげたいなあ。