桃の節句、そして別れ

tamago-ayako2007-03-05

3月3日は、京子の初節句。夫と私の両方の両親に来てもらってのお祝いは、先日済んだので、この日はささやかだけれど、夕食にちらし寿司とはまぐりのお吸い物を作った。本当は昼間に作って頂くものなんだろうけれど、昼間は母乳マッサージと歯医者をハシゴしていたので…。昼、買ってきたはまぐりを塩水に浸けて砂出しをし、夕方からちらし寿司の具をちょんちょんと千切りにしてクツクツと煮、すしめしを炊いた。料理の途中、ちょっとベランダに出ると、空には満月に近い月が懸かっていた。この夜、女の子のいる家庭ではそれぞれに節句をお祝いしているのかな…と、それぞれの家庭の温かな食卓と時間を思い浮かべた。そんなふうに感じた、初めての日。
私にとって、ちらし寿司は、母の味。私が小さな頃から、お祭りの日やお祝い事に、母はちらし寿司を作った。私もこれから、桃の節句には作り続けたいなあ…。


翌4日は、朝からいい天気!すっかり春の風だ。洗濯物を干しにベランダに出ていた夫は、うぐいすの声を聞いた。友人が遊びに来る予定がキャンセルになったので、「こんないい日には、どっか出かけんともったいない…!」と夫と相談。とりあえず、近くてすぐに行ける大阪の夫の実家に電話をかけてみたが、お義母さんは出かける予定が入ってしまっていて無理…。
私は夫に、「鴨川を散歩したい気分やなあ…」と言ってみた。3月に入り暖かい風が吹くようになってから、なぜだかむしょうに京都に行きたくなっていた。行きたい、と言うより、懐かしいような気持ちだった。花の咲く頃、鴨川や木屋町を自転車で走り抜けていた気持ちよさを、この頃よく思い出していた。前に京都に行ったのは、昨年の6月。産後に私だけふらっと行かせてもらった。京子はまだ歩けないので、長時間の外出はベビーカーばかりになってしまい、ハイハイができない。だから、あまり遠出をしない私たちだけれど、なんだかこの日はどうしても行きたい気持ちだったので、夫にそう言ってみると、夫は「鴨川、行こか」と言ってくれた。「うん、鴨川や七条の辺りをちょこっと散歩できたら、もうそれで満足やわ」と私は言った。
京都まで、高速を使って車で1時間弱。道路も混まず、無事京都に到着できた。6年前まで友人と一緒に暮らしていた古い一軒家のある、七条河原町近くの駐車場に車を停めて、鴨川まで歩く。途中、私たちが住んでいた通りをのぞく。あの頃、毎晩通った銭湯の看板が変わりなく見えてほっとする。「帰りに、大家さんとお風呂屋のおばちゃんに挨拶していこ」と夫と話しながら。

↑というわけで、京子、初めての鴨川です。
鴨川沿いのカフェでランチ(京子は持参したバナナ)を食べたあと、川のほとりの道を七条大橋から松原橋までゆっくり歩いた。途中、鴨やユリカモメや川鵜や鷺を見たり、川のそばに座ったりしてのんびり過ごした。柳が芽吹いていた。その後、木屋町を少し歩いたり(四条や三条あたりの木屋町ではなく、団栗通より南の木屋町が静かで私は好きだ)、アルバイトをしていた京料理屋のある正面通をのぞいたりした。そして、かつて暮らした家の大家さんとお世話になった銭湯のおばちゃんに挨拶して帰ろうと、懐かしい家の方に向かって歩いていくと…

↑なんか白い看板が付けられている。近づいてよく見ると、「建築計画の概要」。私が友人と住んでいた家の地番を含むこの一帯の地番が書かれている。用途は「ホテル(ユースホステル)」。「これ、どういうことなん?ここ、なくなるん?」とびっくりして、隣の大家さんちの呼び鈴を押すが、返事がない。大家さんちの前にたくさん置かれていた植木鉢がひとつもないのが、ふと気になる。家の向かいの銭湯をのぞくと、お世話になったお風呂屋のおばちゃんがいた。あの頃よりも少し白髪が増えていたけれど、元気そうだった。「あれ!!お姉ちゃん!憶えてるわ〜!いやぁ〜、懐かしい!お兄ちゃんのことも憶えてる〜!」(あの頃、夫もよく遊びに来ていたので。)「結婚したんです。娘ももうすぐ1歳になります」と報告して、「あの家、なくなるんですか?」と聞いてみると、「そうやねん。売らはってん。○○さん(大家さんの苗字)、昨日引っ越さはったとこやねん」「ええー!!」。
大家さんの家、私たちが住んでいた家、裏にあった長屋など一帯の土地を大家さんが売って、あとには6階建てのユースホステルが建つのだという。私たちが住んでいた家の北隣は、3年ほど前(私と友人が引っ越した後)にバックパッカー向けの宿になった。京都駅に近いという地の利もあり、繁盛しているらしい。その宿のオーナーが、この土地も買ったのだと言う。私たちが話している間にも、大きなバックパックをしょった外国人旅行者が、宿に入っていった。4月に入ると京都市の条例が変わって、5階建までしか建てられなくなるので急いだのだ、とおばちゃんは言った。明日には住民説明会があって、その後すぐ取り壊しになる、と。
「3月に入ってから、むしょうに京都に来たかったんです」とお風呂屋のおばちゃんに言うと、「虫の知らせやったんかもしれへんなあ…。せやけど、よかったわ〜、取り壊されて更地になってしもてから来たら、びっくりするやろからなあ…。この通りも変わっていくわ」。別れるとき、「おおきに、ありがとう」とおばちゃんは言ってくれた。あの頃、毎日言ってくれたみたいに。その声は、全然変わっていなかった。その後、夫と京子と、取り壊されてしまう家の前で写真を撮った。そして、3人で歩き出し、遠ざかっていく家を何度も振り返って見た。通りを曲がるとき、最後のさよならを言った。
「やっぱり、今日は、京都へ行く日やったんやな」「あの家が、呼んどったんかもしれへんな」と、帰りの車の中で夫と話した。「みんなそれぞれ、自分の場所を見つけてん。せやからきっと、あの家の役割も終わったんやな」と夫は言った。そして、こうも言った、「あの家は、うちらの人生における節目の場所やな」と。
夜、今は東京で暮らす友人(かつての同居人)と電話で話した。彼女も驚き、寂しがった。彼女とは3年間、あの家で一緒に暮らした。夜が更けて朝になるまで、尽きることなく話した掘りごたつのある居間も、朝顔やゴーヤを植えた裏庭も、なくなってしまう。「変わっていくんだね」と友人は言った。「あの家のことを、忘れんとこ。記憶にとどめとこ。大事に思い出すよ」と。「でも、あそこがユースホステルになるっていうのも、なんだかすごいよね」。それは、私も思っていたことだった。あの頃、あの家には沢山の人が訪れてくれた。のべ人数にしたら、一体どれくらいになるだろうか。私たちに共通の自転車仲間はもとより、大学の友人、それぞれの地元の友人、バイト先の友人、旅先の友人、職場の先輩…、私の弟や妹や従姉も来た。遠くから来て、宿にしていった友人もたくさんいた。みんな掘りごたつを囲んで、いろんな話をした。その場所が、世界中からの旅行者を泊める宿に変わる。
あの家は、私たちの心の中にしか、なくなる。場所だけでなく、私たちも同じように、変わっていく。「変わっていく」という切なさを、ひしひしと感じた日だった。でも、だからこそ、今を、この毎日を、大事にしたい、と私はいつも思う。過ぎ去ってもう二度と戻ることのないもの。そんな一瞬一瞬の連続…。
さよならが言えて、よかったと思う。