この夏

tamago-ayako2006-08-21

4月27日の日記(http://d.hatena.ne.jp/tamago-ayako/20060427)に書いた、私が小学校3年生の時から手紙のやりとりを続けてきた絵本作家のMさんと、一昨日、愛知県犬山市のホテルで20年ぶりに再会することができた。72歳になられたMさんは、会うなり私と京子をしっかりと抱きしめてくださった。Mさんは、出会う人に、生きる力になる言葉を与えてくださる人だ、と思った。あんなふうに生きたい、と私はあらためて心から思う。Mさんのもつ、人の無償のあたたかさを、言葉を、私は信じることができる。母親になって迎えたこの夏、Mさんとの再会は、私にとって人生の大きな贈り物になった、そう思う。(写真は、Mさんから頂いた手作りのこびとの指人形)
少し前に読んだ、Mさんのエッセイのひとつをここに紹介したいと思う。私が共感し、この先も生涯をかけてずっと信じて生きたいものが、まさにこの文章のなかにある。


「   美しきもの
 私の子どものころは戦争だった。暗雲が広がっていき、美しいものが子どものまわりからなくなっていった。
 路地に咲いていた朝顔がなくなった。子どもの服からきれいな色が消えた。心を織り込んだ絵本も、楽しい色のおもちゃも届かなくなった。美しいものを人間の心から消し去らせることによって、戦争への一直線の道がつくられていた。
 でも、子どもたちは美しいものがほしかった。国防色というよどんだ色のもんぺ服がきらいだった私は、せめて衿に刺繍をしてと母にねだった。おそらく決心のいることだったと思うが、母は目立たないように衿のはしに小さな小さな花を刺繍してくれた。うれしくて、学校に出かけた私のまわりに、引き寄せられるように友達が集まってきて、順番に衿の中の小さな花を指先でなでた。「さわらせて」と何度も何度もなでた。
 敗戦の年の三月、どれだけの家族がおひな様を飾ったのだろうか。昼も夜も空襲のサイレンが鳴り響くようになっていた。私の母は息をひそめるように、私と妹のためにひなを飾った。夜になると燈火管制が行われて電気は黒い布でおおわれた。その弱い光の中に、おひな様がかすかに浮かび上がり、そこだけが別世界だった。闇の中に感じとるひなの美しさが私の心にしみた。
 やがて、子どもたちの間に毛糸を使って小さい人形を作ることがはやりだした。いろいろな色の毛糸を素朴にくくって作った五センチくらいの人形を、子どもたちはカバンや服にぶらさげ、みんなで見せあった。当然、学校で禁止されるはずだったが、子どもたちの知恵であろうか、それとも子どもを愛おしく思った大人の知恵であろうか、この人形のことを、誰いうともなく「爆風よけ」といいはじめた。爆弾から身をまもるお守りとなったこの人形を、大人たちは子どもたちに禁止することができなかった。美しきものに出会ったとき、子どもの心に生きる喜びのともしびが、ともる。小さなともしびではあったが、暗雲の中でもかき消されない光であった。
 今の子どもたちにも様々な暗雲が押しよせている。子どもたちに美しきものを、まやかしでない、ほんものの美しきものをと、私はひたすら願う。」
(『あの日の空の青を』まついのりこ/童心社 より)